
フィギュアスケートの曲にも多用され、数々の作品が日本でも愛され続けているラフマニノフ(1873~1943)は、偉大な作曲家であると同時に、リストと並び称されるほどのピアニストであった。チャイコフスキーに憧れ、文豪チェーホフとも交流を持ち、亡命後もロシアの情景に想いを馳せていたラフマニノフ。彼の生涯から、作品の背景を読み解き、自身の作品の他、チャイコフスキーやショパンなど関連の作品をお聴きいただく、レクチャー・コンサート。 演奏は、ラフマニノフと同時代に生きた画家カンディンスキーの血を引き、ラフマニノフ演奏家として名が知られるミハイル・カンディンスキー。

| 1873年(0歳) | ノヴゴロド州セミョノヴォの裕福な貴族の家系に生まれる。 |
|---|---|
| 1882年(9歳) | 生家が破産。奨学金を得て、ペテルブルク音楽院に入学。 |
| 1885年(12歳) | モスクワ音楽院に転入。ピアノ教師ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿。 |
| 1886年(13歳) | チャイコフスキーに才能を認められる。 |
| 1888年(15歳) | スクリャービンと同級に。 |
| 1889年(16歳) | 作曲への興味を持ち、ズヴェーレフと対立。親戚サーチン家に移り、作曲活動を開始。 |
| 1891年(18歳) | モスクワ音楽院ピアノ科を卒業。 首席卒業生に与えられる金メダルをスクリャービンと分け合う。 《ピアノ協奏曲第1番》を完成。 |
| 1892年(19歳) | モスクワ音楽院作曲家を卒業。《前奏曲嬰ハ短調》を初演し、熱狂的な人気を獲得。 |
| 1893年(20歳) | 歌劇《アレコ》初演。チャイコフスキー没。 追悼の意を込め《悲しみの三重奏曲第2番》を作曲。 |
| 1895年(22歳) | 交響曲第1番を完成。 |
| 1897年(24歳) | 交響曲第1番の初演が大失敗。 そのショックに作曲活動から離れ、マモントフ・オペラの指揮者に就任し、 演奏活動にいそしむ。 |
| 1898年(25歳) | チェーホフと出会う。彼は、ラフマニノフの才能を称賛。 |
| 1899年(26歳) | トルストイに歌曲を披露し、不興を買う。 |
| 1900年(27歳) | 作曲への意欲を取り戻し、翌年にかけて《2台のピアノのための組曲第2番》、 《ピアノ協奏曲第2番》を完成。作曲家としての名声を確立。 |
| 1902年(29歳) | 従妹のナターリヤ・サーチナと結婚。 |
| 1904年(31歳) | ボリショイ劇場の指揮者に就任。 |
| 1906年(33歳) | ドイツのドレスデンに移る。 |
| 1907年(34歳) | 《交響曲第2番》を完成。 翌年、ペテルブルクとモスクワで初演され、熱狂的な称賛を得る。 |
| 1909年(36歳) | 《交響詩「死の島」》、《ピアノ協奏曲第3番》を作曲。 |
| 1913年(40歳) | ローマに滞在。 チャイコフスキーが滞在した家に住み、《合唱交響曲「鐘」》を作曲。 |
| 1915年(42歳) | 正教会の奉神礼音楽の大作《徹夜祷(晩祷)》を作曲。 |
| 1917年(44歳) | ロシアで起きた十月革命を逃れ、ロシアを出国。 |
| 1918年(45歳) | アメリカに渡り、主にコンサート・ピアニストとして活動。 これ以降、作曲活動は低調。 |
| 1925年(52歳) | ヨーロッパでの演奏活動も再開。 |
| 1926年(53歳) | ロシア出国後初の作品《ピアノ協奏曲第4番》を作曲。 |
| 1931年(58歳) | スイスの別荘「セナール」を生活の拠点とする。 ここで《パガニーニの主題による狂詩曲》、《交響曲第3番》を作曲。 |
| 1940年(67歳) | ナチス勢力の拡大により、ロングアイランドに滞在。 最後の作品《交響的舞曲》を作曲。 |
| 1941年(68歳) | ナチスがソ連(当時)に侵攻。祖国救援活動を行う。 |
| 1942年(69歳) | カリフォルニア州ビバリーヒルズへ移住。演奏活動を続ける。 |
| 1943年(69歳) | ビバリーヒルズで没。 自身はモスクワの墓地に埋葬されることを望んだが、戦争中のため実現出来ず、 ニューヨーク州の墓地に埋葬された。 |




