ニジンスキーやパブロワ、ヴィシニョーワ、ルジマートフなど
数えきれないほどのスターダンサーを生み出す世界最高峰のバレエの名門、ワガノワ・バレエ・アカデミー。
このアカデミーの現役教師が来日し、日本の子どもたちを指導します。
25年続いている伝統と信頼のバレエ・レッスン。
昨年の大好評にお応えして、2016年12月も開催決定!!
ジュニアB、ジュニアC、特別少人数クラス、大好評の大人クラスに加え、
今回のワークショップでは夏に大好評いただきましたヴァリエーションクラスも開講いたします!
ピアニスト&日本語通訳付き
このレッスンの大きな特色の1つに、バレエピアニストによる演奏付きということが挙げられます。
ワガノワ・バレエ・アカデミーでは、レッスンの際には必ずバレエピアニストがレッスンの動きに合せてピアノ演奏をします。音楽はバレエという総合芸術にとって、ダンサーと同等の重要なポジションに位置しており、ダンサーは音楽との完璧な調和を求められるからです。そのため、本来バレエ・レッスンにおいて、教師の要求を即時に音楽に反映させることができ、踊りのニュアンスによって選曲するための豊かなレパートリーを持つバレエピアニストは生徒にとって欠かせないパートナーなのです。
バレエピアニストはダンサーが実力を最大限に発揮出来るような演奏を学んだ専門職です。日本のバレエ教室では、現実的になかなかバレエピアニスト付きの教室というのは数が少ないため、バレエピアニストの演奏に合わせたレッスンの出来る、この特別レッスンは非常に有意義なものであることは間違いありません。
その内容の質の高さから、1992年以降、25年間にわたり毎年各地で開催され、高い評価を得ています。これまでに約19,000名の受講者を数えており、会場によっては受講希望者数が定員を超え、抽選を行うところもあります。毎年受講する子どもたちも数多くいる信頼出来るレッスンです。
1996年7月からは「ワガノワ・バレエ・アカデミー留学生オーディション」(栃木県主催)も毎年行われ、これまでに100名以上が同アカデミーへ留学を果たしています。このオーディションから留学を果たし、2013年、ロシアのマリインスキー劇場に日本人で初めて入団した石井久美子さんのニュースなどから、日本でも「ワガノワ・バレエ・アカデミー」の名前が有名になりました。留学生の多くも、このレッスンを受講しています。
※大人のための入門~初級クラスは1日ごとにご受講いただけます。お申込みいただく際に受講日をあらかじめお選びいただきます。また、可能な限り3日間の通しレッスンをお勧めします。
※特別少人数Bクラスが応募者多数の場合、ヴァリエーションクラスをご応募していただいている方を優先的にご案内させていただきます。
※ヴァリエーションクラスはセンターレッスンから始まります。ウォーミングアップの為、特別少人数Bクラスを受講されることをお勧めします。
※ヴァリエーションクラスは1日毎に違うヴァリエーションのレッスンを行います。
1日目:『眠れる森の美女』第3幕よりオーロラ姫
2日目:『コッペリア』第3幕よりスワニルダ
3日目:『バヤデルカ』第2幕よりガムザッティ
ヴァリエーションは3日間通しのコースです。1日のみ、2日のみの受講はできません。
※受講料は事前にお振込み頂きます。お振込み後の返金は致しませんのでご注意ください。
※受講料は全て税込です。
レッスン日程
1971年9月5日スベルドローフスク市に生まれる。
1981年~1989年ロシア国立ワガノワ・バレエ学校で学び、卒業。
卒業後、アレクサンドル・マカーロフが指導する「バレエ・ミアニアチューアズ」バレエ団に入団し、1997年までソリストとして活躍。
1997年~1999年まで、アメリカの「Los Angeles Classical Ballet」、「State Street Ballet」、「Cape Cross Ballet」等のバレエ団で活躍。
レパートリーは『白鳥の湖』のオデット、オディール、パ・ド・トロワ、『海賊』のメドラ、ジュリエッタ、ライモンダ、『スパルタクス』のエギーナ、『ジゼル』のペザントのパ・ド・ドゥ、『パキータ』、レオニード・ヤコブソン振付の『南京虫』、『コントラスト』、『宴会のディベルティスマン』、『ロダン』等。
2006年にワガノワ・バレエ・アカデミー教育学部卒業後、2007年よりワガノワ・バレエ・アカデミーの初級生の教師として活躍。
※教師、ピアニストは都合により変更になる場合があります。ご了承ください。
ジュニアB: 8歳~10歳くらい、概ね2年以上のバレエ経験者
ジュニアC: 11歳~15歳くらい、概ね5年以上のバレエ経験者
特別少人数A: 10~13歳くらい、概ね3年以上のバレエ経験者
特別少人数B: 14歳~18歳くらい、概ね7年以上のバレエ経験者
ヴァリエーション: 14~18歳くらい、概ね7年以上のバレエ経験のある女子
大人のための入門~初級: 1年以上のバレエ経験者
ヴァリエーション以外の全クラス:バーレッスンとセンターレッスン90分間
ヴァリエーション:センターレッスン90分間
※ご応募多数により抽選が決まったクラスに関しましては、複数クラスお申込みいただいた方から優先的にご案内いたします。
※キャンセルにつきましては、受付期間中のみお受けいたします。それ以降のキャンセルは対応致しかねますので、ご了承ください。
Application
お申込み方法
全日程終了致しました。
第一次募集: 10月6日(木)~11月11日(金)12時 必着
第二次募集: 11月28日(月)~12月5日(月)12時 必着
※第二次受付は、第一次受付で定員に満たなかった場合のみ実施
主催:アルス東京
お申し込みいただいたすべてのコースに当選された場合、必ず、全コースのレッスンを受講してください。
キャンセルはお受けできません。
タチアナ・ゴロヴィナ(ワガノワ・バレエ・アカデミー副校長)
◆「バレエ」とは◆
踊りと音楽によってドラマを語る芸術がバレエです。バレエは「イタリアに生まれ、フランスで育ち、ロシアで成人した」といわれるように、国を超え、さまざまな振付家、ダンサー、作曲家のもとで発展を続け、今日に至っています。
舞台芸術は古代ギリシャ、ローマから始まります。当時作られた手の動き「マイム」は、現代まで伝わるバレエの動きに数多く残っています。
バレエはルネサンス期のイタリアにおける貴族の宴での踊りから始まり、フランスに渡り、ルイ14世治下で発展し、ロシアのプティパのもとでクラシック・バレエとして完成しました。
「バレエ」の語源(フランス語のBallet、ラテン語のBallo "踊る")は、16世紀のフランスで生まれたものです。
「冬の宮殿」内に作られたロシア最初のバレエ学校
「パ・ド・カトル」 有名なロマンティック・バレエの作品
◆イタリアでのバレエの誕生からフランスでのバレエの確立◆
ルネサンス期のイタリアでは、富裕な貴族がしばしば豪勢な宴を催していました。そこで貴族たち自身によって披露された踊りがバレエの原型です。その後メディチ家の娘とフランス王との結婚を契機に、バレエはフランス宮廷へ持ち込まれました。フランス宮廷ではこの初期のバレエが盛んに行われ、ルイ14世の時代には、ルイ14世自身がダンサーとしてバレエを楽しんだほどでした。これにより、今現在の基本が出来上がったといわれています。
その後貴族一般の娯楽から徐々に専門的要素が強くなり、1661年に王立音楽アカデミーが創られ、1713年にはオペラ座バレエ学校も設立されました。19世紀にはバレエが大いに発展し、技術の進歩とともに、ポアント(つま先で立つこと)の技術も発展しました。この19世紀には、ロマン主義的バレエという意味の“ロマンティック・バレエ”が発展しました。特徴としては超自然的な存在である妖精や魔女などがよく登場すること、異国の物語を扱っていることでした。
これらのロマンティック・バレエは、すべてパリ・オペラ座を中心として発展し、代表作である「ラ・シルフィード」「ジゼル」「パキータ」などは今日でもよく上演されます。
その後ロマンティック・バレエはロマン主義の衰退とともにパリでは影をひそめますが、ロシアへ渡ったことで、独自の発展を遂げることになります。
◆ロシア・バレエの誕生とその歴史◆
17世紀にロシアは経済的、政治的、文化的に発展を遂げ、西洋の国々もロシアと関係を持つことを望んでいました。ロシアにとってヨーロッパのバレエ公演の豪華さはとても魅力的でした。1673年、アレクセイ皇帝(ピョートル大帝の父)がバレエに大きな興味を示し、ヨーロッパのバレエを真似て、ロシア最初のバレエ公演は上演されたといわれています。
そして、サンクトペテルブルクという偉大な都市を作り上げたピョートル大帝は、ロシアにヨーロッパ文化を迎えるための手段の一つとして、バレエに大変興味を持ち、当時まだ独立した芸術ではなかったバレエを、大きな存在として確立することを考えました。
1734年、サンクトペテルブルクに、貴族のための初等学校のバレエ教師として、ジャン=バティスト・ランデがフランスより招待されました。彼は舞踊の教え方がとても上手く、数年間踊りを学んだ少年たちは、プロに近い踊りの技術を身につけていきました。
ジャン=バティスト・ランデ
イワン・ヴァーリベリヒ
◆舞踊学校の誕生◆
1737年、ランデは女帝アンナ・イワーノワに対して、舞踊学校設立の嘆願書を出し、1738年に許可が下り、ロシア最初のバレエ学校が設立されました。(現在のワガノワ・バレエ・アカデミー)
ロシアの子どもたちは外国人教師の元、異国のステップを踏み始めました。1793年にバレエ学校に新しい教育プログラムが導入され、バレエ学校は舞台芸術学校と改名されました。(帝室バレエ学校)
19世紀初め頃までにイタリアとフランスの踊りを融合しながら、ロシア・バレエは徐々に形成されていきます。イタリアの技巧性、ジャンプ、回転、アクロバットの技を取り入れ、また、フランスの滑らかな動きやバチュ(足を打つの意)とピルエットを取り入れました。基本的に外国人教師が指導をしていましたが、ロシア人教師として初めて、イワン・ヴァーリベリヒ(1766-1819)が教師となり、優れたバレリーナを育てました。中でもエフゲーニヤ・コロソワ(1780-1869)は、幅広いレパートリー(オペラとドラマ)を持ち、バレエだけではなく、ロシアの民族舞踊を素晴らしく踊ったことで知られています。クラシック様式を基本とする気高い演技は「コロソワ演技」と呼ばれるほど好評でした。
またヴァーリベリヒは多くの振付も行い、作品も創りました。彼の創作の中には愛国主義をテーマにしたバレエが多く、例えば1812年にナポレオンとの戦争時代のバレエ「祖国に対する愛情」という作品を発表し、センセーションを巻き起こしました。
◆19世紀、可能性の時代 シャルル・ディドロ◆
1801年、バレエ学校は新しい教師を迎えました。シャルル・ディドロ(1766-1837)はストックホルム生まれのフランス人でした。ロシアに来て10年間バレエを教えるとともに、ギリシャ神話をテーマにしたバレエを振付けました。音楽とバレエ振付は一体となり、踊りは重要な表現手段となりました。彼の功績は今日のペテルブルク派といわれる舞踊スタイルの基礎を築いたことです。
教え子の中ではアフドーチャ・イストーミナ(1799-1848)が最も有名で、イストーミナのテクニックは完璧な上に、優雅な動きと自然な体の動き、感情に富んだ高い表現力を持っていました。ロシアの優れた詩人プーシキンは「エフゲニー・オネ―ギン」にイストーミナの名前を登場させるほどでした。このように、イストーミナは「ロマンチシズムの精神に満ちたバレエを舞台に披露する最初のロシア人のバレリーナである」といわれ、彼女の芸術は高く評価されました。
シャルル・ディドロ
◆プティパの時代◆
19世紀前半はロマンティック・バレエ(ジゼル、シルフィード)の時代でしたが、19世紀後半は「プティパの時代」と言っても過言ではありません。マリウス・プティパ(1819-1910)は、生まれはフランス、精神はロシア人とよく言われていました。ロシア・バレエ芸術の栄光はプティパの名前と結ばれています。この偉大なるバレエ・マスター、プティパは46本のオリジナル・バレエを創作し、さらにそれまでに創られた作品を改定し、甦らせました。
この偉大なプティパが振付け、バレエ音楽の最も優れた作曲家の一人とされるピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)により作曲された「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」は昔からロシアの3大バレエと呼ばれ、現在でも世界中の舞台を飾っています。プティパはいわゆるクラシック(アカデミック)バレエの基礎を作ることに大きく貢献しました。ソリストはもちろんのことですが、コール・ド・バレエを重視しました。プティパのバレエでのコール・ド・バレエは、並び方の美しさ、ポーズの多様性や動きの同時性によって観客を驚嘆させました。
プティパと協力し、振付をしたのはレフ・イワノフ(1834-1901)です。イワノフの最大の功績は、ロシア・バレエのシンフォニズム化に大きな役割を果たし、クラシック・バレエの表現力を高めたことです。いつもプティパの影に隠れて、なかなか彼の力は認められませんでしたが、亡くなってから再評価されました。特に「くるみ割り人形」の雪の精の素晴らしさは彼の才能を表しています。
さらに、ロシア・バレエ・アカデミズムの発展に独特な役割を果たしたのはクリスチアン・イオガンソン(1817-1903)です。スウェーデン出身でしたが、長年ロシアに住み、ロシアの生徒にバレエを教えていく中で、ロシアの芸術家としてロシア・バレエ教育のシステムを深く研究しました。また彼は独自にバレエの教授法を確立し、生徒の個性を開かせ、生まれつきの才能を伸ばし、花咲かせるということに貢献しました。
プティパの時代はロシア・バレエがとても豊かな時期でした。
マリウス・プティパ
ピョートル・チャイコフスキー
◆イタリア踊り手の影響◆
その時期、イタリアの技巧的バレエ・ダンサーが次々とサンクトペテルブルクを訪れ、ロシアの踊り方と根本的に違うバレエを披露していきました。この現象はロシア・バレエの発展に重要な刺激を与えました。なぜなら、ロシアのダンサーたちが外国のダンサーに影響を受け、さらなる技術を向上させていったからです。
イタリアの技巧性とロシア・バレエとの架け橋になったのはエンリコ・チェケッティ(1850-1928)でした。チェケッティはダンサーとしてロシアに招待され、その後19世紀末~20世紀初期の教師として多大な力を持っていました。ニコライ・レガットは以下のように書いたことがあります。
「チェケッティは偉大なるダンサーだった。我々の踊りにこんなに大きな刺激を与えてくれたイタリア人にどうお返ししたらいいのだろうか?」
レガットもバレエ学校、バレエ教育の発展に重要な役割を果たしています。デビュー作は「人形の精」でした。
「人形の精」の役を最初に踊ったのはオリガ・プレオブラジェーンスカヤ(1872-1962)です。チェケッティにバレエを学び、大きな成功を収めました。素晴らしいバレリーナというだけではなく、女優の才能もありました。彼女の演技は生き生きしたもので、他と比較できない輝くものでした。90歳という長い人生の最後までバレエを教え、彼女の弟子は今でも世界中のバレエ舞台を飾っています。
プレオブラジェーンスカヤの次のクラスの卒業生はマチルダ・クシェシーンスカヤ(1872-1971)でした。ロシア・バレエの歴史で初めて32回のフェッテをやりとげたことで有名です。とても幅広いレパートリーを持ったクシェシーンスカヤは、ロシアの踊り手として初めてプリマ・バレリーナの称号を受けました。革命後にフランスに亡命し、西洋バレエの発展にも大きく貢献しました。
エンリコ・チェケッティ
オリガ・プレオブラジェーンスカヤ
マチルダ・クシェシーンスカヤ
◆20世紀初頭:ロシア・バレエの改革◆
フォーキン
ロシア・バレエを語るとき、ミハイル・フォーキン(1880-1924)なしでは語れません。フォーキンは優れた教師、プティパ、イワノフ、レガット、イオガンソン、チェケッティにバレエを習い、在学中から多くの才能を発揮しました。有名なダンサーでもあり、またバレエの振付家として歴史に名を残しています。
フォーキンにとってバレエは単なる舞踊ではなく、人間の情熱の深さを考えさせる芸術でした。「バレエのフォームにおける真の基礎は自然な動きにある」という信念のもと、ロシア・バレエの改革ともいえる教育を実践し、学校にも大きな功績を残しました。
同時代の作曲家や画家たちとの共同で多くのバレエを振付(「瀕死の白鳥」、「ぺトリューシカ」、「火の鳥」、「シェヘラザード」など)、セルゲイ・ディアギレフと共にパリでの「バレエ・リュス」の公演を行い、フォーキンの才能は開花しました。フォーキン振付のバレエの成功は、若い天才バレリーナやダンサー(ニジンスキー、カルサヴィナ、パブロワ)たちによって、より大きな成功を収めました。
ミハイル・フォーキン
アンナ・パブロワとヴァーツラフ・ニジンスキー
パブロワ
アンナ・パブロワ(1881-1931)はバレリーナとしての成功の理由について聞かれたときに、以下のように答えています。
「作曲家が音楽で伝えようとしたこと、画家が筆で描くこと、俳優が言葉で伝えることを私は体と心で伝えようとしている。私の踊りは人生そのものである。踊り手が表現できない感情はありません。」
パブロワはマリインスキー劇場で踊った後、外国公演をスタートさせました。世界中を回り、年間200回踊ることもあり、ロシア・バレエの象徴的な存在となりました。
ニジンスキー
ヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)は偉大なる踊り手、アーティストでした。彼はまるで空中に浮かぶようなジャンプ力や舞台で役として生きる才能を持っていました。優れたテクニックと素晴らしい表現力とマイムを利用してニジンスキーは男性舞踊を復活させました。ニジンスキーの芸術の最頂点は「ペトリューシカ」と「バラの精」でした。
カルサヴィナ
タマーラ・カルサヴィナ(1885-1978)の才能は幼い頃から開花しました。彼女の踊りは特に柔らかくて、表現力と女性らしさによって観客を魅了し、観客に忘れがたい印象を与えました。革命を機にイギリスに亡命し、ロンドンで活躍し、バレエの教授法を教え、同国におけるバレエの発展に貢献しました。また、彼女が中心ダンサーとして活躍した「バレエ・リュス」のパリ公演の成功は、ロシア・バレエの権威を高めました。
バランシン
1921年にサンクトペテルブルクのバレエ学校を卒業したゲオルギー・バランチヴァーゼはアメリカにロシア・バレエの伝統を伝えました。ジョージ・バランシン(1904-1983)の名前で偉大なるバレエ・マスターになった彼は、ニューヨークのバレエ学校とバレエ団の指導者として歴史に名を残しました。
タマーラ・カルサヴィナ
アグリッピナ・ワガノワ
そしてワガノワ
1917年、革命後の困難な時代(国内戦争、経済崩壊、飢餓、大勢のバレエ・ダンサーや教師のヨーロッパ亡命)の出来事はバレエ学校に深刻な影響を与えましたが、幸いにも学校の存続そのものを揺るがすことはありませんでした。ソ連時代のバレエ学校(当時レニングラードバレエ専門学校)の発展に大きな役割を果たしたのは、アグリッピナ・ワガノワ(1879-1951)でした。
彼女は1916年にバレリーナとしてのキャリアを終えた後、1922年からバレエ学校で教師として活躍しました。先駆者の経験を土台とし、自身のバレリーナとしての経験や研究を加えた結果、クラシック・バレエの教育原則をシステム化し、「クラシック・バレエの基礎」(1934年)を出版しました。そして1920年から1951年までの間に、マリーナ・セミョーノワ、ガリーナ・ウラーノワ、タチアーナ・ヴェチェースロワ、フェーヤ・バラービナ、ナタリア・ドゥジンスカヤ、オリガ・イオルダン、アラ・シェーレストという20世紀のスターたちを育てたのです。
1957年、学校は彼女の功績を称え、その名を学校の名称に掲げました。その後、このバレエ学校がワガノワの名前を持つようになり、その名前を受けたメソッドは世界中のバレエ教育の基礎となりました。
この伝統が、そのまま偉大なる振付家ワシリー・ワイノーネン、ロスチスラフ・ザハーロフ、レオニード・ヤコブソン、ユーリー・グリゴロヴィッチといった卒業生にも受け継がれていきました。また、ワガノワと肩を並べて男性クラスを教えたのは優れた教師、ヴラジーミル・ポノマリョーフでした。彼の指導の元、学校を卒業したのはプリミエ・ダンサー、アレクセイ・エルモラーエフ、コンスタンチン・セルゲーエフ、ワフタング・チャブキアーニ、ニコライ・ズブコフスキー、セミョン・カプランでした。
戦後、多くの天才バレリーナやダンサーが育っていきました。ワガノワ自身の弟子、オリガ・モイセーエワ、ニネリ・クロガプキナ、イリーナ・ゲンスレル、アラ・オシペンコ、イリーナ・コルパコーワ、ボリス・ブレグワゼなどです。1950~70年代には世界的なスターになったルドルフ・ヌレエフ、ユーリ・ソロヴィヨフ、ナタリア・マカロワ、ミハイル・バリシニコフ、ガリーナ・メゼンツェワ、アルティナイ・アスィルムラートワ、ファルフ・ルジマートフも、このワガノワ・バレエ学校(ワガノワ・バレエ・アカデミー)を巣立っていきました。
『旧舞台芸術学校(ワガノワ・バレエ・アカデミー)の建物には創造の精神と天才の影が舞っている』
学校は踊り手だけではなく、優れたバレエ・マスター(バレエ教師)の誕生にも役割を果たしています。戦後はバレエ・マスターの協力によって、彼らの振付による“ワガノワ・バレエ・アカデミー オリジナル・バレエ”も上演されています。
現在のワガノワ・バレエ・アカデミー(ロッシ通り)
バレエ学校の生徒にとって、プロの踊り手と共に、舞台で踊ることは必要不可欠なことです。マリインスキー劇場は長年に渡り、築き上げられた伝統を守り、学校のパートナーになっています。毎年マリインスキー劇場で行われる公演に子役で参加するのはバレエ教育プロセスの一環です。また毎年、年末年始の「くるみ割り人形」公演の出演は恒例となっています。またマリインスキー劇場のバレエ団員の95%はワガノワ卒業生であるということ、これは、学校とバレエ団の共存は比類のなき共存としてマリインスキーの素晴らしいコール・ド・バレエを生み出しました。
近年学校を卒業し、21世紀のスターとして世界的に輝いているのは、ウリアーナ・ロパートキナ、ディアナ・ヴィシニョーワ、エフゲーニヤ・オブラツォーワ、ヴィクトリア・テリョーシキナ、アリーナ・ソーモワ、アンドリアン・ファジェーエフ、イリヤ・クズネツォフ、ミハイル・ロブーヒン、ウラジーミル・シクリャローフなどです。
1991年に学校は現在のアカデミーという名前を受けて大学のステータスを持つようになりました。ワガノワ・バレエ・アカデミーはロシア連邦大統領直々にロシアの文化遺産として登録されています。
人間の歴史と共に生きるバレエは長い道を歩んできました。人間に喜びを与え、人間に踊りに挑戦する可能性を与えてくれます。芸術は時が経っても国境を越え、世界に羽ばたいていくでしょう。